【機織り体験】公民館の機織り講座に参加しました!

埼玉県狭山市の市民団体「狭山遊糸会(さやまゆうしかい)の皆さんのご指導による、「機織り講座」に参加しました。

初めての機織り体験

狭山市の公民館で「機織り講座」を開催していたので、参加しました。参加費は200円。ドキドキの初体験です!

会場に展示してあるサンプル作品です。

糸の種類が豊富です。好きな糸を選んで織ります。

機織り機のレバーを上げ下げして柄を作ります。

今回は基本の「平織り」なので、レバー2本のみ使用しました。

糸を左右交互に通し、どんどん織っていきます。

この機織り機は近年家庭用に作られた卓上式です。小型なのでスペースを使わずに置くことができます。

仕上がるとこんな感じになります。

はさみで切ります。

うーん。イマイチだけど仕上がりました!

狭山斜子(ななこ)織の復元活動

埼玉県は幕末から明治時代まで、機織りが盛んだったそうです。なかでも入間郡、高麗郡は斜子織や木綿飛白(かすり)が盛んでした。斜子織は高級な絹織物で、羽織や袴、帯などが庶民に愛用されていました。

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斜子織は平織りの「変化組織」で縦糸、横糸を2本以上並べて織るのが特徴です。[変化組織:平織り・斜文織り・繻子(しゅす)織りを基礎として変化させた織物組織]

左が「平織り」、右が「斜子織り」

特に広瀬斜子は品質が良く、明治26年(1893年)にアメリカのシカゴで開催された世界博覧会で「名誉賞」を受賞しました。また、宮内省の御用品にもなりました。

しかし、明治35年を境に斜子織の生産は減少してしまいました。それは斜子織に代わり「羽二重(はぶたえ)」という平織りが普及したためです。

現在、「狭山遊糸会(さやまゆうしかい)」の方々が広瀬斜子織の復元活動をされています。資料も何も残されていないため、市内の旧家を訪ね、当時の機織り機が残っていないか探したそうです。

幸いにも、たった1台、狭山市立博物館の収納庫に寄贈されたものが残っていました。

博物館に保管されていた機織り機

機織り機の壊れている部分や不足している部分を修復し、絹織物を織れるところまでにこぎつけたそうです。

斜子織の碑

広瀬で織られた斜子の多くは川越の問屋へ出まわり、川越商人によって買い集められていたため「川越斜子」という商標で江戸などに出まわるようになりました。

「川越斜子」として有名になった広瀬の斜子は、のちに清水宗徳により「広瀬斜子」として知られるようになりました。

宗徳は第一回の衆議院議員になった人です。宗徳は明治十年に埼玉県令である白根多助が広瀬を訪れた際に、「広瀬斜子」について語ったと伝えられています。

その話に感動した県令が「ななこおり広瀬の浪のあやなるを たれ川越の 名に流しけむ」と歌ったそうです。その歌が地元の広瀬神社境内の石碑に刻まれています。

広瀬神社境内にある「斜子織の碑」

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あとがき

左右に糸を通す単純作業ですが、そこにレバーの上げ下げが加わると、頭が混乱してきました。他の方たちは糸の配色にも工夫をされていたようですが、私にはそんな余裕はなく「右・左」「上・下」を繰り返すので精一杯でした。

しかしながら、実際にやってみることで、どのように織り目ができるのかがわかりました。

当時の女性は朝は5時半から織り始め、夜は「夜なべ」といって10時頃まで機織りをしていたという記録が残されていました。

かなりの長時間労働です。後々機械で織るようになったのも仕方のないことと思えました。明治や大正生まれの女性は、当たり前のように長時間働いていたようですね。本当に頭が下がります。

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